ゾウがまりもに恋する日。

ぞうとの生活を夢みて。 野生にかえりたいアニマルコミュニケーターたまこのおはなし。

父の犬。

数年前、わたしが病に倒れた。

脳の手術を数回。

 

退院したとき、父がわたしのために新しい犬を買ってくれると言った。

 

はじめてのペットショップ。

はじめてじぶんでペットを選べる権利。

 

わたしは、毛がない動物にときめく傾向がある。

 

ピンシャーにすることにした。

 

父が、「近所の岩男っつぁんに似てるからだめだ」と速攻却下された。

 

近くにいたチワワを見て、父を見ると満面の笑みで、OKを出している。

 

わたしに選択権ははじめからなかったのだ。

 

狆によく似たチワワ。

 

父のための犬。

果てしない感情。

何か最近、胸が苦しくなる。

 

カレンダーを見れば、七夕が近い。そう、七夕は切なさで押しつぶされそうになる。

 

逢いたい。

逢いたい。

 

その感情でいっぱいになる。

 

 

それが今世の話なのか、前世の感情なのかももうわからない。

気がついたら、物心ついた子どもの頃から感じている感情だ。

 

 

 

こんなに田舎にうまれたのに、天の川も見えやしない。

 

 

逢いたい。

逢いたい。

 

 

もはや、誰に逢えば気が済むのかもわからない。

 

 

まりもに逢っても癒されない心。

 

 

一年でもっとも苦手な季節。

 

 

わたしは七夕が苦手だ。

 

 

 

野鳥の声援。

とんびやサギ、カラスやすずめ、野鳥たちが最近、わたしを応援してくれている。

 

母が癌を患った。

 

わたしは決して明るい性格ではない。

だけど、母が生きているうちは笑っていたいから、おなかが痛くなるまで、涙が流れるまで、毎日笑っている。

 

ふと、空を見上げると、野鳥たちがわたしを励ましてくれている。

 

涙がこみ上げる瞬間。

胸が苦しくなる。

アニマルコミュニケーターの道へのきっかけ。

実家を出て一人暮らしをしてからというもの、ペットというペットを飼っていない。

 

スーパーで安売りしているアサリを買ってきては、相変わらず愛でているくらいだ。

もちろん、安売りしているだけに早目に調理しなければいけない。

 

道を歩いていて、飼い主さんと散歩している犬が、わたしを二度見しているのに気がついたのは、数年前。

 

二度見されたから、その犬を二度見し返す。

最初、じぶんの体臭を気にしてみたが、たぶん大丈夫であった。たぶん。

 

しばらくすると、野良ねこに囲まれるようになった。ねこと生活したことがないため、愛でようがわからない。撫でているうちに、別のねこが肩にのり、もう一匹が頭にのる。

ねこおばさんのできあがり。

エサを与えてないのに、迷惑行為をしている気分だ。

 

その頃から、アニマルコミュニケーションという存在を知る流れにのる。

 

何を考えて、ねこたちはわたしにのるのか?

なぜイヌたちが二度見するのか?

 

知りたい。その想いで、アニマルコミュニケーターの道に進む。

ただの好奇心。

 

 

カメとのこと

小学生の頃である。

 

夏休みに学校で飼っていたミドリガメ2匹をわたしが家に持ち帰ることになった。

 

ピンセットで餌を渡すと、パクッと食べる。

夜中に電気をつけると、白目をむきながら、目をあける。

 

その姿がかわいくてかわいくて、わたしは愛でた。

 

学校が始まっても、カメたちを学校に持って行くこともせずに、数年育てた。

以外と大きくなるものである。

 

ある年、わたしが長期入院することになった。

 

帰宅し、家を探しても、カメたちの姿はない。

 

近くにいた祖母に尋ねてみると、

「裏の川に流したよー」

の一言が。

 

食いしん坊のわたしが大人になった今でも、スッポンが食べられないくらいカメがすきだ。

タマゴの思い出

スーパーで買ってきたタマゴを自分であたためてもひよこが羽化しないと気づいたのは、物心ついた頃だった。

 

タマゴを見ると、無性に育てたくなる。

 

それまで、温度やあたため方に問題があるのだとばかりおもっていた。

 

そんな時、デパートの開店記念で、1人1羽のヒヨコが配られた。

今おもうと、昭和のバブル時代は、恐ろしい発想をするものである。

 

わたしは手に入れたヒヨコ2羽を「ピコ」と「パコ」と名付け、愛でた。

 

冬の時期は、寒かろうとおもい、掘りごたつで育てた。

 

夜は消される掘りごたつ。

3日で、ピコとパコのいのちは果ててしまった。

 

わたしは、家の裏にピコパコのお墓をつくった。

 

今でも、その場所で思い出す。

アサリが並ぶ日。

母が砂抜きをしているアサリをみて、

いつも愛おしくおもう。

 

「飼いたい」

と言っても、それは叶うことのない儚い夢。

 

早々に夕ご飯には、その愛おしいアサリたちが食卓に並ぶのである。

 

そして、わたしは、ありがたく美味しくアサリたちをいただく。

 

それにしても、食卓に愛おしい生物が並ぶことは、実に多い。